私が生まれた土地、それが島根県松江市です。ただし1歳までしか住んでいなかったそうで、当然その頃の記憶はありません。「生まれはどこ?」と聞かれるたびに、「島根県松江市」と棒読みで答えていました。
まだ行ったことがない松江市に1度訪れてみたい——という思いが2024年11月、ついに実現しました。サンライズ出雲の予約が取れたからです(その程度の情熱とも)。
母によると当時、松江市内にあった雇用促進住宅に親子3人で住んでいたのこと。その住所として母子手帳に記されていたのが「松江市上乃木町宇賀215-1」。そのうち、「宇賀」という地名は現在廃止されているようで、Googleマップで検索しても出てきません。
ただし「宇賀」で検索してみると、公園や医療施設の名称としてして残っています。ということで、「雇用促進住宅ってひょっとしてここかな?」と目星を付けた場所に行ってみることにしました。もっとも、54年前にあった建物がそのまま残っているとは思えませんので、半分冗談のつもりで向かいます。
それがここ、市営宇賀団地です。約50年前の建物といわれれば、そんな雰囲気もするような。

それにしても誰もいなしちょっと怖い。その日はこれで満足して、ホテルに帰還しました。
翌朝。そういえばホテルのすぐそばに松江市役所があったことを思いだします。「現在の住所だと“上乃木町宇賀”はどこに相当するのですか?」という、市民でもない人間からのくだらない質問のためお邪魔してみました。すみません。
快く担当してくれた方に「当時は雇用促進住宅と呼ばれていたらしいです」と告げたところ、「ああ、それなら……」と地図をとりだして教えてくれたのが「ビレッジハウス上乃木」という民間の団地でした。
「子どもの頃、この場所が雇用促進住宅と呼ばれていました」とのこと。当時を知っている方に出会えるとは、何という暁光でしょう。お礼を申し上げて退散しました。市民税を納めていない部外者が朝の貴重な時間を奪ってしまい、申し訳ありません。
その日の仕事をホテルで終えてから、目的地のビレッジハウス上乃木に向かいます。前回当てずっぽうで訪れた「市営宇賀団地」から、そう遠くは離れていない場所でした。
松江駅からタクシーで5分ほどで到着。ここが……そうなのか?

外壁はきれいになっていますが、廊下などの内部は、確かに55年前の風格にふさわしい古めかしさ。管理人室には誰もいらっしゃらなかったので、勝手に失礼して敷地内および建物内をうろついてみました。もちろん、部屋の中には入っていません(入れません)。

ここでふと、母に電話をしてみます。「棟は2つあった?」「エレベーターはなくて4階まで?」「入口にポストが並んでいた?」「上階から宍道湖が見えた?」などなど。すると徐々に記憶が戻ってきた様子。私が電話で話す細部について、かなり思い当たるものがあるようです。
間違いない。ここが生まれてすぐに暮らしていたところ、いわば私のルーツか……と深い感動を覚えたかというと、それほどでもなかったり。不審者と通報される前に一刻も早くここから離れたい、としか考えていませんでした。

徘徊している間、出会ったのはインド人風の住人1名のみ。廊下を歩いているとき突然開いたドアの先にいた方で、とっさに「こんににちは」「コンニンチハ」とあいさつを交わしました。55年前と違い民間施設になっていますが、現在も雇用促進的な役割を果たしているようです。
探索を終わりそそくさと敷地を出たところに、こんな看板がありました。しっかり「雇用促進住宅」との文字が。前回もこの付近まで来ていたので、この看板を見つけていれば話は早かったかもしれません。

ちなみにこの地域ですが、競技場のトラックのように道路が楕円に敷かれています。前回来たときも不思議に思ったのですが、市役所の方によると元競馬場だったとか。なるほど。

このとき撮った写真を帰省したとき母に見てもらったところ、ここで間違いないとの太鼓判をいただきました。
不動産広告をみてもらったところ、間取りもほぼ変わっていないそうです。https://www.villagehouse.jp/chintai/chugoku/shimane/matsue-shi-322016/agenogi-6045
1年しか住んでいないわりには(そして80歳を過ぎているわりには)急に思い出が鮮明になったようで、いろいろと当時の話をしてくれました。といっても隣の誰々さんがどうしたとか、病院がどうだったとか、私にはまったくわからない話ばかりです。しかしその話からは、皆が希望に燃えていたであろう、高度成長期の空気を感じとれました。
54年前、自分もそこに確かに存在していた。そして54年ぶりにその地に立った。考えようによっては、それは貴重で感動的な体験なのかもしれません。しかし現場でスピリチュアルな何かを感じることはなく、感動で胸がいっぱいになったわけでもありません。当時の記憶がないのですから、まあ当然といえば当然でしょう。むしろ酔狂なことをしているなあ、とい乾いた感情の方が強かった。母の思い出話を聞きながら、亡くなった父にもこの写真をみせてあげたかったな、とは思いました。
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